山本清治氏の戦歴と逸話   井上和巳(元デイリースポーツ記者)

 「ヤマセイ」とは、昭和20~30年代に活躍した競輪界の大スター「山本清治さん」(現・日本名輪会会員)の愛称で、「記念杯をつくってほしい」という長年にわたるファンの要望に応え、引退されてから50年後に創設され、今回で12回目を迎える。
 山本さんは、昭和5年(1930年)に熊本に生まれ、現在91歳になるが、栄光に満ちた競輪人生と、引退後の素晴らしい逸話はいつまでも語り継がれるだろう。

 彼が熊本県立商業学校(現熊本商業高校)に通っていたころ、小倉で競輪が始まった。昭和23年(1948年)11月のことだ。それから3ヶ月後の24年2月、同校の卒業式を目前にしてプロ選手になった。23年に創設された小倉と大阪住之江競輪に続き、24年に大宮、西宮などでも競輪が開設されたころの話である。
 山本さんは男7人、女4人の11人兄弟だが、若くして亡くなった長兄を除く6人の男子がプロ選手になった。オールドファンなら記憶されているかもしれないが、次男から順に春雄、金哉(きんや)、清治、義男、利光、賢一選手の「そろい踏み」である。今後、これだけ大勢の兄弟が競輪界で活躍することは絶対にあり得ないだろう。

 さて、注目のヤマセイさんだが、昭和25年の第1回高松宮杯(後に高松宮記念杯と改称)に続き、翌26年には第1回競輪祭も制覇して脚光を浴びた。その勢いはとどまるところをしらず、この年(26年)は前年に続いて高松宮杯を獲り、ダービーも手にした。よほど素質を持って生まれたのか。デビューしてわずか2年で競輪界の頂点に立ったのだった。
 話を戻すが、昭和24年に熊本でデビューした山本さんは、1年後に兄の金哉さんと大阪に転籍。大津びわこで行われた第1回高松宮杯は「大阪の選手」として優勝した。なぜ、大阪へ移ったのか。その理由は第2次世界大戦が始まる前から熊本県は自転車競技が盛んな所で、後にプロになった紫垣正春、正信、正弘兄弟や宮本義春選手ら逸材が多かった。そんな時期に紫垣兄弟らが大阪へ移籍。それを追って山本さんも大阪へ移り、瞬く間に大スターにのし上がったのだった。

 当時の名勝負や逸話をたどればキリがないが、デビューしてから12年たった昭和36年(1961年)11月29日、大阪住之江競輪を最後に引退した。突然の引退でファンは驚き、何とも残ってほしいと願ったが、彼にはデビューして10年たてば引退し、どんなに微力であってもいいから社会に貢献したいという強い思いがあったからだという。

 現役時代の通算成績は、総出走回数1290回のうち、1着609回、2着266回、3着153回。そのうち、特別競輪は高松宮杯3回、ダービー(日本選手権)1回、競輪祭1回、全国都道府県選抜2回の優勝。さらに、その間には賞金ベスト10に7回も名を連ねるなど数々の功績がさん然と輝いている。
 超一流のスターといわれた選手の中では、福島正幸、中野浩一、吉岡稔真選手らが17年間でそれぞれ引退している。しかし、ヤマセイさんの12年間の現役生活はあまりにも短く、引退式がおこなわれた住之江競輪場は黒山のファンで埋まり、日本自転車振興会(現・JKA)は新しく制定した「500勝達成記念賞」を授与。滋賀県自転車振興会は「胸像」を贈って栄誉を称えた。

 引退した山本さんは、事業家として活躍しながら、母校の熊本商業高校に申し入れて、平成3年から5年間にわたって1年に10人分の奨学資金(1年に150万円)を寄付。生徒の皆さんから「ヤマセイ奨学資金」と呼ばれて、感謝されたという。
 当時、山本さんはこんな言葉を漏らしたことがあった。 「私は現役時代、約3600万円の賞金をいただいた。そのご恩返しのつもりで、引退後は事業に精を出し、これと同額の寄付をさせていただきたいと思って働いている。」と。
 昭和20~30年代の3600万円は、現在、どの程度の貨幣価値になっているか分からないが、以後も寄付を続け、21年前に阪神大震災が起きた時は、兵庫県選手会を通じていち早く100万円の義援金を贈り、現在は居住地の大阪府高石市へ寄付を続けている。
 高石市への寄付金は、南海電鉄・高石駅前の図書館で遣われ、「闘病に関する書物」として約1000冊の本が書棚に並んでいるという。
「以前は子どもさん向きの本を寄贈させてもらったが、今は平成7年に膵臓ガンで亡くなった家内(喜久子さん)を偲び、病気で悩んでいる人やご家族の苦労を考え、闘病患者とその家族の心情を書いた本を贈らせてもらっています」とのことである。

 オールドファンや平成時代のファンは言うに及ばず、競輪を知らない人にも、ぜひ観ていただきたいのが、今後の岸和田競輪の一翼を支える「ヤマセイ杯」である。